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what I felt and thought

結局

本気だすか、ださないか、あきらめないか、あきらめるか、やるか、やらないのか

っていうことで、要は、どれだけの強い想いがあるかどうかってことで、すごいシンプルよね。

その強い想いを維持するのがきっと難しいんだと思うけれど、けど難しく「考える」ことではないよね、何事も。

WallworksのクラスとNANA

今日から、ミニターム始まりました。簡単にいうと、インスタレーションのクラス。これはやばい、今までで一番興奮しそうなプロジェクトになりそうです。いろーーーんな、アートのバックグラウンドをもった生徒がいそうです。いろいろな面白いものが見れそうだし、今までにやったことのない分野に挑戦するチャンスにもなりそう。これは経験値がアップしそうですな。オフィシャルに卒業まであと3ヶ月。

責任を感じることは、「自分」の存在価値を感じることでもある。大変だけど、思い責任から逃れるよりも、自分の代わりはいくらでもいる、って思われる方が辛い。漫画のNANAね。ヤスが言ってた。

ちょっとこれはかなり響きました。てゆかあの漫画すごすぎるね。昔はキャラ的にノブが一番好きだったけど、今はヤスだな。ていうか、みんなすごい大人ね。皆。ハチも今あらためて読んでみて好きになった。いろいろあるけど、みんな、自己中ではなくて、すごくいろいろ考えている人たちだと思う、NANAに出てくる人って。ここまで人間のすごい、すごいあんまり見たくなくて表現するのが難しそうなところを描いてる漫画家とか、表現者っていないと思う。

スターバックス寒いの巻

スターバックスにきて、写真編集したり本を読んだり手紙を書いたりいろいろたのしいことやろうと思ってきたのに寒すぎる。これは寒すぎるよ。そんなときに限ってアイスコーヒーを頼む、きっと私はあと30分もいれないです。選ぶスタバ間違えた。やっぱ慣れてるとこがいちばんね笑

development psychologyまとめ その1

選択肢が増えた現代社会。すーーごく自由。こんなにいっぱいだと、自分がどうしたいか、何がしたいのってわからなくなるのも無理じゃないってばさ。魅力的なこと、やりたくないこといっぱいいっぱいだもん。多すぎて、何が魅力なのかも、やりたくないのかも、そのうちわからんくなって、自分ってなんなんだろって周りと同じ選択をして安心を得ようとするのも無理じゃない。だからって、自由なんだからなんでも好きなことするといいさって言われて(もしくはそう思って)なんでもありだからって、人の気分を害してまで「自分」がおもしろければ、楽しければいいってもんじゃないし。だいたいそういう風になった人って、共感とか、相手の立ち場に立って考えることっていうのが、自由になった、っていう変な開放感で意味をはき違えがち。自由って楽しいもんね、なんか。そういう開放感になるのわかる、特に若いと。でも自分だけよければいい?とわたしは考える。
そういうなんでもありの社会だから、自分がないと簡単に流される。そういう自由な環境や過程の中にいて、そのことをちゃんと理解している人は、自由だからこそ生まれる責任の重さを自然と背負っている。背負ってるっていうとマイナスな意味合いじゃね、責任を責任と感じていない、もしくは積極的に自分の責任と向き合っている。

流されやすい人は、自分で決めたっていう強い意識がないから、(っていっても結局最終的に何かを決めたのは誰でもない"自分自身"なんだけど)自分で決めた決断から生じる責任から逃げる。だからそういう人は、自由な環境にいないほうがいいと思う。流されるから。ってゆうてもね。問題なのは、そういう環境に置かれざるを得なくなっちゃうこと。そういう時代。から、精神的にまだまだ成熟しきれてない人が増えてきている。大人になりきれていない大人。ずるずると自己確立の時期のばせちゃうから青年期の時期が長引くなりやすくなってるみたい。(もちろんそんな人たちばかりじゃないけんね。)昔の人は、悩む時間すらなかった。選択肢が限られている、自由っていうには遠い環境だったけど、あれこれ迷って考えたり、決断を決めかねるっていう時間もなかったのかもしれない。今の時代は自立も成熟も、自由な環境にいて初めて試されて、達成される。難しいジレンマ。いろいろ便利になった分、選択肢が増えすぎて、大変な時代じゃね。なんにしろ成熟が必要ね。

ピザとポテトとコーラと。

ここ最近毎日コーラ飲んでるし、ジャンクフードも食べてるし、何より

お い し いーーーーーーーー

 

毎日食べたら飽きるじゃん。って思ってたけど、ここにきて初めていよいよ本格的にアメリカナイズされたか。

自己への執着から成熟へ

相手の価値観を受け入れること。それが出来たら、きっとそれは愛だし、相手を尊重しているし、思いやりでもある。けどその上で、だからこそ「自分の価値観」を知り、理解していることが重要なポイントになってくる。

というのを去年、大事な友達から吸収した。相手を大切にしたいと思うのなら、それ以上に本気で自分と向き合って、自分を知って、自分との関係をまず大切にすることが最重要になる。自己を知る。自分の価値観を知る。

自分の価値観を人に押し付けたり、持ち続けたりして執着しないように気をつけたいね。どんなときでも、人からの意見を受け入れて、認められるような謙虚さを持ち合わせていたいね。けど、自分のこれ、っていうような信念は持っていたいよね。これできたらすごいわ。超むずかしいわあ。
っていう話を最近した。

こんな言葉に出会った。

離脱に到達した人というのは、没個性とも呼べる個性を身につけると言われます。そういう人には一切打算がなく、自分の利益にすべてを結びつけるようなこともしません。行いを阻む制約もなくなり、自由に自分の見解を述べることも、独自の存在に執着して生きることのこだわりなくできるのです。今という瞬間に私たちが抱く感覚、物事の捉え方、思考というものは、決して絶対的なものではありません。長年生きてきた中で培われてきた個人的な状況(肉体的、感情的)の積み重ねによる経験から出てくる、暫定的な判断にほかならないからです。

ここで問題なのは、絶対的という意味で自分自身を放棄するという要求に応えることですが、それは個性を殺すということではなく、ただ私たちの周りに起こるすべての出来事を根底で「自分とは無関係」と捉えることなのです。 

人間としての成長を願うのであれば、物事を部分的に見るのではなくその全体を捉えて見るために自分のエゴを、自己への執着を捨てなくてはなりません。
金銭欲、傲慢さ、攻撃的な性格、欲望などはみんなこの貧弱な「自我」からくるものです。分かち合い、謙遜、和解、恩恵、これらは反対に成熟した「自我」、すなわち一歩引き下がった「自我」が作り出す状態をいいます。
*シンプルを極める ドミニックホーロー著 

まさに私の目指しているとこだった。この本2年前から持っていて何度も読んでいたのに、胸に響くところは毎回違う。きっと前に読んだときはなんとも思わずスルーしていたな。
自我を持つことは大切。でもその自我がいったいどこからくるものなのか。
私が持ってるのは、貧弱な自我からだろなあ。自己への執着。
ちなみにこの章のタイトル、「自己の成熟」。
私は自己に対して、いろいろごっちゃになっとったけ、けどこういうことか、と今やっと「頭」で理解したところです。(頭でな。)これからこの知識を「知恵」にするかは、私の行動次第。
成熟した自我って、なんか本当、ものすごく執着がなさそうで、きっともっと軽く、けどテキトー、というわけでもなく、とても中立した精神状態で生きているんだろうな。
仏陀みたいな。

なんかこれデジャブなんだが。この問題、一度19歳の時に向き合っていた気がするけど、やはり何度も巡ってくるものです。

 

評価や批判、愛と感謝

人の事を評価したり、批判したりするのは、自分にも同じ事をしているのと同じ。反対に、人に愛と感謝を与えれば、自分にもそれを与える。

 

っていう文章に出会ってから、自分の言う事1つ1つにとても注意を払うようになった。本当に気をつけるようになった。本当に自分を大事にしたいと思ってきたから。でも、それを始めてから、びっくりするくらい、無意識に人の事を評価したり(悪い意味で)批判している事に気づいたんだよ。もう自然なくらいだから、びっくり。それを自分にもしているだなんて、更にびっくり。いかに自分を大切にしてこなかったか。愚痴とか批判を言わないのが、自分を大切に扱う事に繋がるなんて意識している人はどれくらいいるんだろうか。

それを気にし始めると、他の人も気になってくる。全然批判や愚痴を言わない人っているもの。けどあまりまだ会ったことないかも。愚痴や批判ばかり言っている人もいる。言う人も言わない人も共通しているのは、それがとても自然で当たり前のように思っていること。愚痴や悪口を言わない人は、言わないようにしているのではなくて、もうそもそも最初っから、そういったものはその人に無いかのような雰囲気。言う人は、自分が愚痴や悪口を言っているなんてさらさら気づいてないかのようなおもむき。

私は今とても意識しているところ。愚痴や悪口を言わないように。愛や感謝で満たせるように。人っていつから批判や悪口を覚えるのだろ。少なくとも姪っ子の葵唯ちゃん(4歳)が愚痴や悪口を言っているところをまだ見た事がない。小学生から?私もいつから、感謝や愛でいっぱいだった頃から、愚痴をいったり批判をするようになったのだろ。
ちょっとそんな事考えたら悲しくなっちゃったけど、そんな事実に気づかないより数億千倍マシ。